明日遊ぶ猫

献血しながらサブ3.5の文化系ランナー。

第156回芥川賞受賞作品「しんせかい/山下澄人 著」を読みました

しんせかいをよみました。しんせかいは第156回芥川賞受賞作品です。

 主人公の「スミト」が著名な演出家のもとに弟子入りし、山奥の「谷」で共同生活を送るという内容です。この話は、作者である山下澄人さんが、青春時代を過ごした倉本聰率いる富良野塾での日々がモチーフになっています。富良野塾では俳優や脚本家を目指す若者が共同生活をおくりながら、地元の農家から依頼される作業の対価を生活費とし、暮らしています。そのような境遇においた若者のお話ということで、当然若者の青春群像劇が展開されるものと考えて読み初めましたがすこし景色が異なるようでした。

 「スミト」には地元に残してきた恋人未満の女友達、「谷」で仲良くなった女性などがでてきますが、青春小説にありがちな男女の思いの交差はありません。また、「谷」での仲間たちとの会話も多くは空虚な交換が行われているにすぎません。彼のコミュニケーションに難があるのか、それともフィクションの中に主人公が存在しているのか私の中の疑問が芽生えながら話は終盤になり、スミトは読者に対して最後に思いも寄らない言葉を投げかけ物語りは終わります。スミトがここまで重ねてきた言葉はなんであったのかと考えさせられる物語です。

夏の翳り ジョイス メイナード (著), 中井 京子 (翻訳)を読みました。

夏の翳り (ハーパーBOOKS)

夏の翳り ジョイス メイナード (著), 中井 京子 (翻訳)を読みました。13歳の少女が過ごした70年代の雰囲気や少女時代の思い出や犯人との対決がスリリングに表現されている点など大変おもしろく読みました。特に70年代を代表するナックの『マイアローナ』の歌詞が物語の途中に挿入され印象的です。



あの夏、わたしはサンフランシスコ郊外を震撼させた連続殺人鬼と対決し、死にかけた。犯人を追う刑事の父を助けたくて、ある行動をとったせいで。もしもあの瞬間、妹がいてくれなければ、きっと殺されていただろう。そして30年あまりが過ぎた今、真相を知るのはわたし1人だけになってしまった――。70年代後半のカリフォルニアを舞台に、みずみずしくも危うい少女たちの夏を描いた話題作。(Amazon紹介)



 このお話はある姉妹(ローラ・ザロイアンスとジャネット・カブリー)の体験がモチーフになっています。姉妹は幼少時代、本作と犯人のモデルである”山道の殺人鬼”が出没する地域に住んでおり、小説中の刑事と同じく父が捜査の指揮をとっていました。姉妹は著者の文書講座を受講したつながりから事件に関する彼女らのエピソードを聞き、いくつか脚色をおりまぜ物語を書いたようです。



窓を開けておくと、コオロギやフクロウの鳴き声、コヨーテの遠吠え、まれにピューマの声も聞こえる。山のほうに目を向けると星が見えるし、朝になって明るくなると、馬たちが草を食み、交尾していることさえあるし、空にはたかが舞い飛んでいる。
 わたしたちがあらゆるものを見つけた場所だった。それがあの山。動物の骨にシカの糞。鳥、花、コンドーム。動物の死骸、人間の遺体。岩とトカゲ。セックスと死。(P51)



 そのためか、小説の構成は前半の少女時代の詳しい出来事について記述されています。また、後半については姉妹の話には無い創作、犯人との対決というエキサイティングなお話の二部構成になっているように見えます。前半部の娘の少女時代の出来後について、かなりの文量を使って山の出来事、恋人やセックスへの興味。幻視や占いなどのスピリチュアルなものへの興味など書かれており、13歳の少女のもつ危うさ、多感さ、母親への反抗、父親へのあこがれなどがうまく表現されています。



一九七九年の夏。わたしは十三歳と二か月で、七年生を終えたばかりだった。親友はいなかったが、ないよりも妹を愛していたし、父も大好きだった。ピーター・フランプトンとジョン・トラボルタにも熱をあげ、大きくなったら作家になるつもりだった。あるいは、国際的に活躍するスパイ、女性初のカーレーサー。『アンネの日記』は四回読み返し、アンネ・フランクがセックスについて書いている箇所と母親への怒りを綴っている箇所はページに折り目をつけた(P75)



 一方で、後半の犯人との対決の部分はジョイスの創作です。そのせいでしょうか、いくつか構成の点で疑問がありました。まず、犯人が古いトラックを住処としていた点について、警察の包囲網があるなかで逮捕できなかったことが疑問です。また、主人公の前に出現した点も疑問です。犯人は食料を調達するのに空き巣を行っていることが記述されています。日常的に人里におりることをしていないように見えますから、彼がTVや新聞などの媒体に触れることが難しいように見えます。なぜ、犯人は娘が刑事の娘であることを知りことができたのでしょうか。さらに、いくつかの犯人の物証が残っているにも関わらず彼女たちが犯人に襲われ一度は撃退したという事実がなぜ捜査陣に信じられることがなかったのかも疑問です。犯行につながる、〇〇という決定的なものがあるにもかかわらずそれを見落としています。


 いくつか構成の疑問がありましたが、彼女たちにとってのこういったラストはふさわしいという終わり方できている作品ではないかと思います。過酷な運命を背負っしまった姉妹になんら納得のできる立場の終わり方を用意した、これはモチーフのもとになった姉妹(ローラ・ザロイアンスとジャネット・カブリー)に書かれた作品でないかと感じました。

コンビニ人間 (文春e-book) (Japanese Edition) by 村田沙耶香を読みました。

コンビニ人間 (文春e-book) (Japanese Edition) by 村田沙耶香を読みました。
この作品は第155回(2016年上半期)芥川賞を受賞した作品です。作者の村井さんは2003年「授乳」にて第46回群像新人文学賞(小説部門・優秀作)、09年「ギンイロノウタ」にて第31回野間文芸新人賞、13年「しろいろの街の、その骨の体温の」にて第26回三島由紀夫賞を受賞されているベテランの作家さんですね。


主人公は大学卒業後、就職せず、コンビニのバイトは18年目続けている36歳未婚女性(古倉)です。長くコンビニの店員を続けており周囲から「なんで結婚しないのか」「なんでアルバイトを続けているのか」といった無遠慮な詮索を受けことが多くなってきています。彼女がコンビニ定員を続けていたことには理由があり、幼いころから自分が<普通>ではないと感じていることに起因しています。



こういうことが何度もあった。小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。 「誰か先生呼んできて!」 「誰か止めて!」  悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った



コンビニでは業務のほとんどがマニュアル化されていますから、古倉にとってコンビニ店員を続けることは自分が<普通>であることを実感できる場となっています。彼女が独創的な考えを持っていても、彼女の周囲の人々はその考えを知ることはありません。彼女はマニュアルによって<普通>を手に入れることができたといえます。一方であまりにも長くコンビニ店員を続けていたことから次第に前述の好奇の質問を浴びせられることになります。こういった<普通>の人たちによる詮索、<正常でない>ものたちへの社会の残酷さというものが表現されています。



『勘弁してくださいよ……。バイトと無職で、子供作ってどうするんですか。ほんとにやめてください。あんたらみたいな遺伝子残さないでください、それが一番人類のためですんで』 「あ、そうですか」 『その腐った遺伝子、寿命まで一人で抱えて、死ぬとき天国に持って行って、この世界には一欠けらも残さないでください、ほんとに』 「なるほど……」  



彼女(古倉)さんの思いはこういった<普通>の人たちが要求する<普通になれ>という圧力ことが、異常ではないかと考えさせるものになっています。


【読書メモ】「手話ということば もう一つの日本の言語 (PHP新書) /米川 明彦 著 を読みました

「手話ということば もう一つの日本の言語 (PHP新書) /米川 明彦 著」を読みました。

本書では、手話にはろう者の権利獲得と口話法との対立など多くの歴史があることが分かります。

なぜ手話は否定されたか  では、なぜ手話が否定されたのか、口話主義者の代表である川本の代表作『聾教育精説』(現場のバイブルと言われた)から手話に対する批判を書き出しておこう(植村英晴『聴覚障害者福祉・教育と手話通訳』参照)。 手話語は自然表出運動に基づき、人類の言語としては最も初歩的で、幼稚なるものである。 手話語は多義であり変化し易い。したがって意義が曖昧になる懼れが多い。 手話語は直観的であり思想を直截簡明に、絵画的に表現することは容易であるが、抽象概念を表現することは困難である。 手話語は思考を論理的になすことを困難ならしめ、したがって文を論理的になすことを困難ならしめ、論理的表現を完全ならしめない。 手話語はそれ自身には、一つの語法があるかも知れぬが、その語法は如何なる国語とも一致することはない。 手話語は殊に時間空間、原因、結果等の事物の関係、物の属性、殊に人間の関係を明瞭に表現すること困難である為、甚だしきは、その文は文をなさず、語法の紛更を来し、々単語の羅列となることがある。故に聾唖児の思考力を発達させることに貢献することが少ない。 斯くの如くであるから、手話語は各国の国語とは、全くその体系を異にする。異種の体系語と結合して教授しても聾児の使用する国語は、あたかも木に竹をついだ様になる傾向が甚だ強い。したがって自ら、聾児に文の理解力を盛にし、読書力を発達させることを、甚だ困難ならしめ

今日の認識においては甚だ誤った認識であることは確かで、手話には文法があり、多様な表現が可能であることは証明されています。ろう教育において、長らく口話法が重要視され手話が排除された歴史が説明されています。

口話法の間違いについて、全国聴覚障害教職員連絡協議会の会長前田浩氏(大阪市立ろう学校教諭)は同紙で「手話を使うことを口話法と対立するものとして排除することは誤りだった。聞こえないこと、手話を使うことを恥とし、ろう者として誇りをもってたくましく生きることを教えず、しかも読話・発語能力でもって子どもたちの人間能力をはかる間違いを犯してきた」と話している。

口話法は読話・発語能力を学習する必要があるため修得は簡単ではありません。ろう者にとって負担が多い話法といえると思います。また、あくまで聴者として都合のよい話法であることが理解できます。当然のことながら、手話は聴者とろう者がコミュニケーションをとるための言語ではなく、ろう者にとっての言語であるという認識をあらたにしました。そのため、聴者の立場から、ろう者の言葉を聞くためにはやはり手話を勉強することが必要であると考えました。

同じ日本に住む日本人でありながら、自らの言語が保障されず、不平等、不利益を受けて、権利が損なわれ、尊厳が傷つけられる人々が大勢いることに目を向けなければならない。

まだ、ろう者の権利獲得の道が半ばであることが理解できます。ろう者にとってもう一つの日本語である手話が日本において公用語となっていない現状があり、そのことが公共におけるろう者の不利益につながっている現状があると理解しました。

芥川賞受賞作品 死んでいない者/滝口悠生著 を読みました


芥川賞を受賞した滝口悠生さんの「死んでいない者」を読みました。

目まぐるしく変わる語り手と多数の登場人物、また登場人物を丁寧に掘り下げることにより、
著者は作品の全容を簡単に理解さえることを避けているかのようです。

深い人間の描写は作家としての力を感じますし、芥川賞らしい重厚な作品でした。


多数の登場人物と深い人物描写

孫は全部で十人いる。  いちばん年長がさっきから話に出ている寛だ。死んでなければ三十六になるのか。その弟の崇志は葬儀に来ているが、末弟の正仁はさっき崇志が言っていた通り鹿児島にいて今日は来ていない。崇志が三十二、正仁は三十になったかならないかぐらいだ。春寿たちを乗せて風呂に行った紗重は二十八で、故人と同じ敷地で暮らしていたにもかかわらず葬式に来ていない美之は二十七だ。美之の妹知花は十七だから兄妹の間に十歳の年の差があり、ここがそのまま孫連中の世代をふたつに分ける谷間ともなっている。

登場人物がとても多く、人間関係を整理しながら読むのはなかなか難しい作品です。
ところどころで現れるお通夜あるあるは読み手にも共感できる点が多いのではないでしょうか。


身内という世間

家族史的なトピックを整理しようとしてみると、自分の生まれる前や幼少期のことは他の家と変わらぬ程度のことしかわからないのだった。真っ先に思い出されてくるのは、酔ったお父さんがトイレで鍵をかけたまま眠ってしまった事件や、家族旅行で伊勢を訪れた際にひとりだけ逆方向の電車に乗った知花の紀伊半島一周騒動といった、家族のなかで繰り返し語られる他愛ない話や、昔飼っていた飼い犬ベスのことばかりだった。

孫は親戚筋にとってさしたるイジメられている訳でもなく学業に不安を感じている訳でもないにも拘わらず
不登校という選択をしたことに対し、親戚筋から奇異な見方をされています。一方で孫はそれを意に介していません。

親戚たちの勝手なレッテル張りはいわゆる世間が許さないといったそういう類のもので、
些末なものなのですが、こういった世間の良識の押し売りはどこにでもあるのではないでしょうか。

このカテゴリーに該当する記事はありません。