明日遊ぶ猫

献血しながらサブ3.5の文化系ランナー。

目の前のことに全力を尽くす / バガヴァッド・ギーター

 努力したことが報われないことはよくあることです。神様は別に善人ではないので、自分の個別の要望を叶えたりはしない。

 ヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」では、戦争の不条理に悩む王子アルジュナに対して、最高神ヴィシュヌはこういった。

敵を征服して、繁栄なる王国を享受せよ。彼らはまさに私によって、前もって殺されているのだ。あなたは単なる道具となれ。アルジュナ。



 非常に乱暴ですが、真意はなすべきことをなせということに尽きると思います。
 努力をしたことが重要で半分はなされている。
 結果はすでに予定されており、自分のコントロール外の事象であると考えると
 重みから解消される気がします。

 僕はストレスに弱く、大事な試験などの前は、お腹を壊してしまうことがたびたびなので、
 これを考えて思考を落ち着けるようにしています。

それが人を汚すのである /新約聖書(マタイによる副音書)

 随分前からですが、猫ひろしさんの著書はアマゾンのレビューで荒れています。レビューは著者の人格ではなく内容に言及していただきたいものです。罵詈雑言は自分を汚すものです。

新約聖書のマタイによる福音書の以下の一節が好きです。

「しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。」

口語訳聖書(新約および旧約 索引)

聖書は行動を律するものではなくて、単純に教訓の書としてみると面白いですね。

読書記録 『切り取れあの祈る手』


内容紹介
取りて読め。筆を執れ。そして革命は起こった。思想界を震撼させた大著『夜戦と永遠』から二年。
閉塞する思想状況の天窓を開け放つ、俊傑・佐々木中が、
情報と暴力に溺れる世界を遙か踏破し、あまたの終焉と屈従とを粉砕する、限りなき「告知」の書、登場。
白熱の五夜一〇時間。


 本書を読み終えて感じたのは「非常に熱い文章だ」ということです。


 著者曰く、本を読むということは引き込まれるということ、発狂するということ。本は革命を生む、暴力による革命だけが革命ではないということ。本が革命を有無とはどういうことか。ルターは聖書を読むことによって、「教会の権威」や「領主に遣えること」が聖書に書かれていないことを知った。結果としてキリスト教を「教会」から「個人」に取り戻すことができたということ。テキストを読み、書くことは革命に加担していることに他ならないということ。熱い、熱い文章です。


 筆者は言います。「純文学は売れない。文学は終わったといわれた久しいが、文学は終わっていないという。識字率が非常に低かった旧ロシア時代においても、ドストエフスキーやトルストイのような文豪が生まれた。文学が売れなくなったぐらいのことは文学の危機でもなんでもない。」と言うこと。


 確かにその通りだ。「周りの人間が本を読めないのに本を書く人がいた。」という状態が成立していた時代があったのだから、文章を書くという行為自体がなくなろうはずがない。文学が終わろうはずがない。


 という理由で、久しぶりに純文学の作品でも読もうかなと思った今日この頃です。



〈目次〉
「文学の勝利」
「ルター、文学者ゆえに革命家」
「読め、母なる文盲の孤児よ ― ムハンマドとハディージャの革命」
「われわれには見える ― 中世解釈者革命を超えて」
「そして三八〇万年の永遠」



 ヨシフ・ブロツキイは「私人」と題された、ノーベル文学賞受賞に講演のにおいて、、国家というレガシーに対して、文学はミューズの声を聞く聞くことで常に未来だと言われた。ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳『私人』群像社(ISBN:4905821754)もかなり熱い文章なので読んでいただきたいと思います。




読書記録 「バガヴァッド・ギーター」神に人の苦悩は理解できるのか?

 ヒンズー教とインド文化に興味が向きまして、ヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」に関する本を2冊読みましたので記録しておきます。




内容(「BOOK」データベースより)

対峙する敵の中に親しき者を認め,戦いに躊躇する戦士アルジュナ.神クリシュナは彼に説き始めた,おのが義務を果たせ,と.神は説得に成功するのか.戦士の苦悩の果てに何が変わったのか──.大叙事詩『マハーバーラタ』にも組み込まれ,ヒンドゥーの聖典として愛誦される作品に,ガンディーやヴェイユらの読みをふまえ新たな光をあてる.




『バガヴァッド・ギーター』―神に人の苦悩は理解できるのか?を読了しました。

『バガヴァッド・ギーター』はヒンドゥーの聖典として、特に重要なものとして位置付けられています。『バガヴァッド・ギーター』は結果への執着を捨て行為せよという「無私の行為」を教示するものとされています。これを観念的ではなく実践的に実行したのはガンディーでした。

ガンディーは暴力に対する姿勢として非暴力運動を行いました。『バガヴァッド・ギーター』はそれ自体は戦争という行為をエピソードを取り扱っていますが、そのテーマは「無私の行為」であることから、ガンディーの思想に何ら不整合は生じないと考えます。

戦争という行為の道義的な問題については、このバガヴァッド・ギーターのテーマとしては重要ではなく寓意的に捉えてよいと思います。





内容(「BOOK」データベースより)

インド古典中もっとも有名な本書はヒンドゥー教が世界に誇る珠玉の聖典であり、古来宗派を超えて愛誦されてきた。表題は「神の歌」の意。ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である、と説く。サンスクリット原典による読みやすい新訳に懇切な注と解説をくわえた。




バガヴァッド・ギーター(岩波文庫)を読了しました。

P39 「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならない。」

バガヴァッド・ギーターでは、生まれながらの義務を全うすること、「無私の行為」を行うことの大切さを教示しています。無私の行為とは献身・挺身・犠牲を払ってもやり遂げる行為のことです。

たとえば、聖女と呼ばれるマザーテレサやキューブラーロスは、仮に報われない行為であったとして、それをやり続けることができる高い信念を持っていたでしょう。また、歴史の影で無視の行為を行った、大多数の無名の人々がいることも忘れてはならないと思います。

一方で、行為の結果があまりに不可避の事柄であっても苦悩する必要がないのであれば、科学者として任務を遂行したに過ぎないオッペンハイマー※は苦悩する必要がないのであろうかという思いもあります。

本書に登場する神(クリシュナ)は能弁で、戦いを正当化できない王子アルジュナに対して、幾度と無く説得を試みます。その内容はとても思弁的な内容です。神(クリシュナ)はブラフマン(ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性)の叡智について語ります。また、ブラフマンとアートマン(自己)が一体になるための極意について(自我を捨てること)を説きます。

これは、仏教的ないわゆる成仏(仏陀になる)とどのような違いがあるのかを理解し、今後の課題としていきたいと思います。

※ オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った部分(11章32節)を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。

読書記録 孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智

送信者 20118517

孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智 (智恵の贈り物)

目次



I 孤独が一番の贅沢
II 簡素に生きる大切さ
III 心を豊かにする働き方
IV 持たない喜び
V 自然の教え




  孤独の愉しみ方―森の生活者ソローの叡智を読みました。ソローは森の中の湖畔で小屋を立てて自給自足の生活をしながら、人間らしく生きるとはどんなことかを思索しました。現代におけるシンプルライフの先駆者と言えるかもしれません。


  世の中を嫌忌して森に住む、現代にいれば変人と烙印を押されかねない。彼は世間から超然していたからこそ言える沢山の言葉を残しています。


P192 仕事のために目覚めた一日からは、得るものは多くない。朝、自分の人生を始めるために起きる。


  時代が変わって仕事の道具や仕方が変わっているが、仕事の目的というのは変わってはいないはずです。手段が格段に進歩しても、我々は自らを摩耗させることをやめない。私たちは道具の道具に成っているのかもしれない。


P34 シンプルな食事や服のほうが、美しいと思われる。


  現代社会に於いても、消費に貢献しないことについて批判されるのは間違っている。浪費や摩耗が人生の目的だとするとそれは虚しいことだと私は考えます。


歩け、森の中を。歩かない足は、やがて身を滅ぼす。


  ソローは世を捨て森に行こうといっています。もちろん、レジャーとしてではない。



  # まだまだ足の具合が良くない。毎日、ウェイトトレイニングの日々です。

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