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読書感想「輸血医ドニの人体実験 ---科学革命期の研究競争とある殺人事件の謎」

輸血医ドニの人体実験 ---科学革命期の研究競争とある殺人事件の謎

輸血医ドニの人体実験 ---科学革命期の研究競争とある殺人事件の謎

 

 読了しました。良書です。おもしろく読みました。

 

 本書は、タイトルからはわかりにくいが小説ではなく、史実をもとにした科学史読み物です。

 


P43
間もなくハーヴェイは、血液は一方向に流れて心臓に到達し、そこで燃焼するのではないと確信した。ポンプの動きを担う心臓から送り出された血液が体内を循環し、弁が血流の方向づけを助けているのだった。


 未だ錬金術が科学の範疇にあったフランスの17世紀の時代に、血液循環説が発見されました。 それに触発された野心のある若者ドニは、動物(仔牛)から人間への輸血を成功させます。

 


P32 翌朝、目を覚ましたモーロワは、落ち着いて生き生きしていた。いつになく礼儀正しく、罪を告白したいので神父を読んでほしいと求めた。告解の後、ヴォー神父はドアを静かに閉めてしばらく立ち止まると、驚きを隠せないというようすで今見てきたことばかりのことを話した。モーロワの精神はもう健全で、きっとすぐに回復して秘蹟を受けられるほどになるだろうというのだ。


 輸血は精神病の治療を目的として施術されました。ドニは精神の病を患った者に、仔牛の血を輸血すればそのように従順になると考えました。確かに、輸血をした患者は従順になり、施術の成果があったようにみえました。

 

 今日の感覚ではこういった人体実験は倫理的に問題があると考えるのが一般的であると思います。 しかしながら、今日においてもiPS細胞のようなあたらしい科学的な発見が、旧来の正しいとされた倫理観が見直されるきっかけとなる事例もあります。フランス中世の科学革命を現代に至るコンテクストとしてみると面白いと思います。

 

 また、個人的に不思議に思ったのが、仔牛の血を輸血すれば従順と考えた、血が精神に何らかの作用をもたらしていると考えうる発想はどこに由来しているのかという点です。たとえば、日本において血液の型が人間の性格になんらかの作用をもたらしている説が多く信じられています。 (僕はこれを信じておらずほとんどハラスメントの類であると考えているのだけど)

 

 今日も中世と同じ様に迷信と科学が曖昧に交差する時代である点に違いはないのではないかと感じます。

「精神を切る手術」を読みました

「精神を切る手術」を読了したので感想を書きました。



「科学と論理が互いに相反した時に、高次の部分で均衡を図ること(止揚)が可能と考えるか」あるいは「それは理想論に過ぎず、科学という便益によって論理がないがしろにされてはならないと考えるべきか」によって、この本から得られる印象がいくぶん異なるのではないと思います。

 近代の科学技術の発展は主に前者の可能性に重きをおているように思います。たとえば、脳の機能解析において、近年もちいられる脳の画像解析は直接メスを入れるわけではないため、非侵略的であり、高次均衡の可能性を示しているといえると思います。
 
 しかしながら、私はこのような考えに対して、以下の立場から、疑問を感じるのです(私が近年の脳科学ブームに感じている違和感のきっかけともなっています)。

1. 科学技術の限界という立場から
 画像解析は行動と脳の血流の相関関係を観測しているに過ぎず。そのようにして得られた命題は、事実を束ねたに過ぎず、いわゆる帰納的な解釈といえると思う。

 そのようにして求められた命題が果たして脳の複雑な機能を示しているといえるのだろうか。

 また、仮に脳の機能を解明するために、脳にメスや何からの電気刺激などの操作を行うことによって、一部の能力を一時的になり無効化や減退たらしめたとし、トライ・アンド・エラーのような形で検証することができたとしても、そこから得られた命題は脳の複雑な機能を示しているといえるのでしょうか。

2. 論理の面から
 論理という垣根を超えてまで、社会の便益を優先させることが果たしてよいことといえるのでしょうか。

3. 最後に
 私は、論理よりも全体の便益のほうが優先される社会が人間にとって幸せなことではないと考えます。二律背反に陥った時にどこかで立ち止まる必要性も考えるべきと思います。本書では脳科学を題材に取り上げていますが、これをもとに広義の科学者の論理について考えるきっかけになりました。

ダンゴムシに心はあるのか

ダンゴムシに心はあるのか (PHPサイエンス・ワールド新書)


『ダンゴムシに心はあるのか』森山徹 著 を読みました。


内容(「BOOK」データベースより)
「ファーブル昆虫記」にも出てくる、庭先によくいる小さくて丸くなるダンゴムシ。このダンゴムシにも「心」があると考え、行動実験を試みた若い研究者がいた。迷路実験、行き止まり実験、水包囲実験など、未知の状況と課題を与え、ついにダンゴムシから「常識」では考えられない突飛な行動を引き出すことに成功した。大脳がないダンゴムシにも心があり、道具を使う知能もあることを示唆するユニークな実験を紹介し、「心‐脳」問題に一石を投ずる。


 ダンゴムシは交代生転向という杓子定規な行動特性をもっているが、極めて特殊な状況、例えば閉ループ状態の環境などの「未知の環境」に置かれると奇想天外な行動を取る。その点に着目して、ダンゴムシにも心があるのかもという検証を行なっているのがこの本の内容です。


 実験の結果について、色々と疑問のある点はあるものの、ダンゴムシという生き物の行動特性をアプローチとして心の科学に迫った非常に有意な検証であると思います。


 川でカモを眺めていると、対岸に行くのを躊躇していたり、渓流下りのような遊びをしていたり非常に人間的な行動を見かけます。彼らにはなんとなく心があるように思います。犬や猫にも心があるように見えます。彼らと高度な信頼関係が結ばれている人をよく見かけるからです。


一方で、ダンゴムシやムカデやバッタなんかには心があるものなのでしょうか。彼らを観察していても、彼らとコミュニケーションや信頼関係を結べることは無さそうです。彼らには大脳がありませんが、ダンゴムシの実験ですくなくとも自律的に行動を選択している可能性はあるようです。


 私が「わたくし」と認識しているものは本当に大脳なのでしょうか。それとも心(わたくし)と大脳は別の器官なのでしょうか。

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